戦艦大和の沖縄特攻--戦艦大和乗組員の証言

【元戦艦大和乗組員の石田直義さんの証言より】

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十数発の魚雷が命中、浴びた直撃弾は数え切れない。二時間余り数次にわたる米艦載機の雷爆撃で、戦艦「大和」は大きく傾く。「総員退去!」。せり上がった右舷の手すりに5、600人が鈴なりになっていた。
「沈没の大きな波に巻き込まれ、意識が消えそうになる直前に、妻と長男の顔が浮かび生きようとする力が沸いてきました。ただ4月の冷たい海で体力が持つかどうか。まわりでは一人また一人と波間に消えていきました。」
大和の生き残りで、広島県呉市在住の石田直義さん(87)は、艦橋の上にある測距室が持ち場だった。艦のいちばん高いところなので、戦闘状況をよく覚えている。「ゴマ粒をまいたような敵機の大編隊を発見、体中の血が煮えたぎり、いよいよ来たか、と武者震いしました。でもすぐに厚い雲に隠れたんで『敵編隊、雲の中、測距不能』と叫びました。」「戦闘中は夢中でしたが、空襲から次の空襲までの時間が長くさみしかった。近くの機銃座では何人も倒れてうめき声をあげている。弱音ははかないが、いたいのは戦争もけがも同じですから。」
「風防を外した第一艦橋で指揮をとっていた艦長は、タマがびゅんびゅん飛んでくる中で、豪胆というか、くわえたばこで怒鳴っていました。雷撃と爆撃、両方の回避に必死でした。」島根県出身の石田さんは1934年(昭和9年)18歳で志願して旧海軍へ。戦艦「伊勢」、駆逐艦「陽炎」を経て、1942年、上等兵曹として乗り組んだ。1944年に呉の女性と結婚、沖縄出撃直前に長男が生まれた。
「上陸を許された夜、初めて赤ん坊の顔を見ました。それが見納めと思い、妻と長男に心の中でお別れを言いました。妻あての遺書は書きましたが、悲しむと思い、投函できませんでした。」
「飛行機の200機や300機で山和が沈むわけはない、という不沈神話を信じる半面、今度こそ最期という思いがよぎりました。乗り組員は以心伝心、沖縄だと覚悟を決めていましたから。」戦後、書店を開いた石田さんは今も店番に立つ。8月15日を知らない高校生が増えて、市内の小学校で大和の話をするようになった。

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  • 生き残っていた人がいらっしゃったとは驚きです!みんな死んでいるとばかり思っていました。かなりその記憶も生々しく、シンレッドラインを思い出してしまいました。

「弾がビュンビュン飛び交っている中でくわえタバコで怒鳴る指揮官」という人物は圧倒されるというか、ある種の美しさを伴っているようにも思えます。
また、スクリーンに登場するキャラクターとするならば、そのアクの強い個性的な風貌は素敵にピッタリだと思います。
すんません、こうなってくると戦争が残虐であるとか、そういうことではなくなりその一部が異様に拡大視され、戦争がもはや全然違う所の事象とさえ捉えられてくる気が致します。
戦後60年経とうとする今、もはや第二次世界大戦が何であったかも分からない若者が増えてきているといいます。
興味本位ではいけないと思いますが、この目を覆いたくなるような事実から片時も目をそむけず、向き合っていきたいと思います。その心構えがあるならば、現在進行中で行われているイラク戦争が如何におぞましいものであるかは明白です。
戦争の残虐性に気づく人がもっと増えれば、「イラクベトナム化」とも言われるこの戦争の終結を願う人がもっと増えていくに違いありませんし、そうありたいと思ってやみません。
今年4月には山和の大型模型(10分の1)を収める「大和ミュージアム」が呉市内で開館するそうですので、関心がある方は是非どうぞ足をお運びくださいませ。